ストーカーおじさん 第8話 7月6日(土)
土曜日、快晴。自転車のカゴには何も入っていなかった。私は薫と手を合わせて喜ぶ。
「明日はきっといい一日になるわ」
大きく伸びをし、朝の心地よい空気を吸い込む。
「ケーキの材料、買い忘れないようにね」と薫が茶目っ気を込めて言う。
「やめてよ、そんなこと言われると心配になるでしょ」
「ごめんごめん。それじゃあ、僕は行くよ」
「いってらっしゃい」
薫はしっかりと私に手を振り返してくれた。当たり前の日常が戻りつつあるのだ。
今日は明日の準備のために、留美子と一緒にいつもより遠い大きめのスーパーに出かける。天気予報によると今日は晴れ空が続くようで、お出かけ日和だ。
早く出かけたいと駄々をこねる留美子に昼食を食べさせ、買い物に出発する。留美子にとっては短い遠足のようなものなのか、とてもウキウキしている。
太陽の光が肌を突き刺す。留美子がぬいぐるみを持って行こうとするのを必死に止めていたおかげで、日焼け止めを塗るのを忘れていたことを思い出す。日焼け止めを塗りに戻る時間は十分にあるが、留美子が機嫌を損ねるに違いない。今日だけだと自分に言い聞かせ、我慢する。
今日スーパーで買う予定のものはちゃんとメモしてある。だからといって買い忘れがなくなるわけでもないので、薫の忠告を受けて慎重に買い物をすることにした。
「買い忘れはない、わよね」
エコバッグの中身とメモを交互に確認し、照らし合わせる。その間、留美子はつまらなさそうに足をぶらつかせていて、しまいには腕を引っ張りはじめた。
「ねぇ、お母さん、パズル売り場に行こうよー」
「パズルはこの前もらったでしょう」
「だってピースが一つ足りなくて完成しないんだもん」
「ピースが足りない?」
私は手を止め、留美子を見る。嘘じゃないもん、というように留美子はこくりと頷いた。
「完成させて、お母さんの誕生日プレゼントにしようと思ってたのに!」
「部屋はちゃんと探した?」
「ちゃんと探したもん!」
留美子は頬を膨らませる。
昨日、留美子の部屋に訪れた時、特に散らかっているということはなかった。私との約束をきっちりと守っているからだ。そんな部屋で紛失するとは考えられない。
「お願い、新しいミルクパズル買って! 頑張って完成させて、お母さんにプレゼントするから」
私の誕生日プレゼントなのに、私が買わなくてはいけないというのは、なんともおかしな話だ。
「ピースが足りないとしても、そこまで組み立てられただけでもすごいじゃない。お母さん、留美子の気持ちだけで十分、嬉しいわ」
なんとか新しいパズルを買わなくて済むように誘導する。次から次へとほしいものを買い与えてはいけないと、私の母から教わっているからだ。
留美子はまだ納得がいかないようで、相変わらずのふくれっ面。どんなに留美子が駄々をこねても、新しいパズルを買うつもりはない。
思い出したように時計を確認する。夕方まで、まだまだ時間はある。帰りに本屋に寄るのもいいかもしれない。
「あっ」
視線の先には、両手いっぱいの紙袋を持った青年の姿があった。向こうも私に気づいたのか、こちらに向かってきた。留美子は不安そうに私の背に隠れる。
「いやぁ、ここまでよく会うと、例のストーカー男に間違われても仕方がないかもしれませんね」
青年が冗談めかしてそう言うと留美子が、「ストーカー男って何?」と聞いた。留美子にはストーカーの件について一切話しをしていないので、返事に困る。
「お嬢ちゃんのお母さんに一方的な片思いをしているおじさん、って言えば分かるかな?」
「おじさん? ……ストーカーおじさん? それ妖怪?」
どうやら理解できていないらしい。それならそれで助かると、私は話題を変える。
「そうだ。この前の謝罪として、これよかったらどうぞ」
明日のケーキに使う予定のイチゴだ。今までのお返しとしては物足りないが、仕方がない。これ以外に渡せるような品がないのだ。
「駄目だよ、明日のケーキに使うのに!」
留美子が私の服を引っ張り、懸命に止めようとする。
「気持ちだけで十分ですよ。それに今両手が塞がっていますから」
両手の紙袋を重たそうに持っている青年は、苦笑して肩をすくめる。
「すみません、本当に」
「いえいえ、こちらこそ。そうだ、イチゴの花言葉って、知ってます?」
「花言葉? いえ、知りませんけど」
花言葉と聞いて、九十九本のバラの花束が頭をよぎった。
「いろいろとあるんですが、その一つに、『幸福な家庭』っていう意味があるですよ」
「幸福な家庭……」
いい意味だ。普段、気にしたこともなかったものに、そんな意味が込められていたとは、驚きである。
ふと、冷蔵庫に入れたままのさくらんぼや桃のことを思い出す。
「さくらんぼや桃の花にも、花言葉ってあるんですか?」
「もちろん。桃は『あなたのとりこ』で、さくらんぼは『小さな恋人』。ちなみに、さくらんぼの味は、初恋の味に例えられたりしますよ」
ただの偶然だろうか。それとも、ストーカーは花言葉を意識していた? 鳥肌がたちそうだ。
「詳しいんですね」
「昔からずっと、『将来の夢はケーキ屋さん』ですからね。いろいろと調べていたら、その過程でこういった情報を目にするわけです」
ケーキ屋さん――私も小学生のころは、「将来の夢はケーキ屋さんです」などと言ってはいたが、今はこうして主婦をしている。青年のように、子供のころの夢をずっと持ち続けている姿は、どこか尊敬の意を覚えた。
「私、応援していますから。受験勉強もケーキ屋さんの夢も、どっちも頑張ってくださいね」
今のガールフレンドともうまくいきますように、と心の中でつけ足しておく。
「応援ありがとうございます!」
青年は律儀に頭を下げる。そして顔をあげると、両手に提げた大量の紙袋を重たそうに床に置いた。
「それにしても遅いなぁ」とため息を漏らす。
随分とまた大量の荷物だ。青年が自分のために買ったものとは思えないが……。
「もぉ、ユウタ、店の前で待っててって言ったのに! っていうか荷物を勝手に床に置くな!」
青年の背後から現れたのは、青年と同じ年ごろの女性だった。腰に手を当て、矢継ぎ早に文句を言っている。
「ごめんごめん」
床に置いていた荷物を慌てて持ち直し、女性に私たちを紹介する。
「この人がこの前話した人だよ」
女性は顔を真っ赤にして、私たちに頭を下げた。
「わっ、どうもはじめまして」
この女性が噂のガールフレンドというわけだ。
派手な服装に短いスカート……若いと感じさせられる容姿だ。私も十年前はこんな感じだっただろうか。いや、私は地味だった。
「初めてユウタから話を聞いた時は冗談かと思っていたんですけど、本当にこんな偶然ってあるんですね」
女性は私の背に隠れていた留美子を発見し、「かわいい!」と言ってしゃがみ込む。留美子は最初こそ警戒していたが、女性の人懐っこい性格に押されて、徐々に打ち解けはじめる。
「僕より彼女の方が子供の扱いがうまいみたいです」
青年は苦笑し、留美子と楽しく会話していた女性に声をかける。
「さぁ、そろそろ行こう。いつまでも引き止めていちゃ悪い」
女性は、「はーい」とため息交じりに返事をする。
「お引止めしてすみません。それでは」
青年はそう言うと、女性とともに雑踏に紛れて姿を消した。
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