ストーカーおじさん 第6話 7月4日(木)

 眠っていた私の肩を、幸恵が乱暴に揺さぶる。
「佳子、起きて!」
 一時間後に設定しておいた携帯のバイブ音に気づかず寝入ってしまったのかと思い、飛び起きる。その次の瞬間には無理やり腕を引っ張られて、一階のリビングまで連れて行かれた。何がなんだか分からない。ぼんやりとしている頭を必死に働かせようとしている間に、幸恵はソファで寝ていた真志さんを叩き起こした。
「現れたよ、例のあいつが」
 私と真志さんは同時に、「えっ」と驚く。眠気は一気に覚めた。
 真志さんを先頭に、懐中電灯を持って私の家の前に向かう。当然もう人の姿はない。
 ガレージの奥に置いている自転車を懐中電灯で照らす。
 私はショックのあまり声を出さないよう口元を手で押さえた。
 そこには、ラッピングされた大量の白いバラが押し込まれていたのだ。
「い、一度、家に戻ろ」
 幸恵の提案で、私たちは木之本家のリビングへと戻った。白いバラの花束とともに。
 テーブルの椅子にそれぞれ座り、向かい合う。亮くんが二階で寝ているためにあまり大きな声は出せない。
 重い空気がリビングに流れる中、幸恵が話しはじめた。
「気が動転していたからよく見れなかったんだけど、確か全身が黒一色の服装で、身長は真志より低かったと思う。顔は帽子とサングラスとマスクで隠れてて、性別すら分かんなかった」
 つまり、まったく情報が得られなかったということだ。
 全身が黒一色の服装ということは、夜の闇に扮しようとしていたのだろう。帽子とサングラスとマスクの三段構えからして、絶対に誰にも顔を見られないよう細心の注意を払っているように思える。恐ろしいことに相手は、この行為が誰かに見られてはまずいことだと自覚している。
「役に立たなくて、ごめん」
 私だって幸恵の立場だったら気が動転したに決まっている。私には幸恵を責める権利はない。そう言ってあげたかったのだが、口に出すことはなかった。
「分かったことは、そいつが深夜の二時三十分ごろに現れたってことと、俺より身長が低いってことだけか」
 真志さんよりも身長が低い人間なんて、どこにでもいるのではないか。というのも、真志さんはかなりの長身で、確か百八十センチは軽く超えていたはず。役に立つ情報ではない。
「向こうがまた同じ時間に現れると信じて、俺が佳子さんの家のガレージで待ち伏せするか?」
「駄目だわ、そんなの。真志さんにもしものことがあったら、幸恵に顔向けできない」
 真志さんは長身でスポーツマンという言葉がしっくりくる男だが、向こうが丸腰と決まっているわけではない。万が一に刃物や鈍器でも使われたら、たとえ真志さんであっても太刀打ちできないだろう。
 私は、テーブルの上に置いてある、白いバラの花束を横目で見る。よく目を凝らしてみるとメッセージがついていて、『九十九本の花束をあなたに』と書かれている。もはや気味が悪いとか不気味だとか、そんな問題ではない。恐ろしい、ただそれだけだ。
 しばらく沈黙が続いたあと、幸恵が何か思いついたのか勢いよく顔をあげた。
「自転車のカゴに、『次やったら警察に通報しますよ!』って書いた紙を貼りつけてみたらどうかな?」
「お、いいんじゃないか、それ」と真志さんが手を叩いて言う。
「私もいいと思うけど、向こうを刺激することにならないかしら」
「この手の人間は、小心者なのよ。警察に通報されるって分かれば、大人しくなるはず。現にこうやって、警察沙汰にならない程度のことしかやってこないでしょ?」
 幸恵に言われると妙に納得してしまう。
「それにもしも向こうが仕掛けて来たら、すぐに警察に通報しちゃえばいいのよ」
 幸恵は簡単そうに言ってのける。そのもしもの事態が起きたとき、警察に通報する時間が私にあるのだろうか。
「……分かった、やってみるわ」
「その意気だよ、佳子。ストーカー野郎なんかに負けちゃ駄目だからね」
 幸恵が何気なく使った「ストーカー」という言葉が心に響く。テレビや新聞で見かけるストーカー被害にまさか自分が遭うとは、考えてもみなかった。
 三人で行われていた秘密の会議も、時計が午前三時を回ったころ、お開きになった。
 白いバラの花束は、悩んだ末にひとまず木之本家に預かってもらうことに。ストーカーからもらった花束など、家に飾る気がしない。だからといって捨てるのもかわいそうだ。

 目覚まし時計の音が遠くで聞こえている。思った以上に睡魔は強く、なかなか目を覚ませない。
「お母さん、起きて起きて!」
 体を揺すられた私は咄嗟に飛び起きた。幸恵が私を起こしに来たのだと勘違いをしたからだ。例のあいつが、ストーカーが現れたのだと。しかし、ベッドの脇には留美子が腰に手を当てて立っていた。
「お母さん、寝坊だよ!」
 時計を見ると、いつも起きる時間をとっくに過ぎている。慌てた私は、洗顔もろくにせずに朝食の支度をはじめようとしたが、すぐに気づく。流し台には既に二人分の食器があった。食パンでも焼いて朝食を済ませてくれただろう。
「ごめんなさい、私ったら」
 薫に向けて謝罪をするも、返事はない。何かあったのかと思い留美子に目で尋ねるが、彼女も分からないらしく肩をすくめた。
 ソファに座り、電源の入っていないテレビを見つめている薫。私の声が聞こえないほど、物思いにふけっているのだろうか。ずっと様子がおかしいとは思っていたが、いよいよ不安になってくる。
「あなた、大丈夫?」
 肩に手を置くと、薫はびくりとして振り返る。
「え? ああ、なんでもないよ」
 いつもの微笑みはぎこちなく、無理に作っているのは誰の目で見ても明らかだ。
「無理しないようにね。何かあったらすぐ私に話して」
 薫にそう言ったあと、すぐにはっとする。私だって薫に話していないことがあるではないか。
「うん、大丈夫だよ」
 話してしまおうかと思った。薫ならきっと親身に話を聞いてくれる。しかし、薫の思いつめた表情を見ていると、言おうにも言えない。さらに薫に悩み事を抱えさせることになるのでは、という思いが邪魔をする。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
 悩んでいる間に薫はソファから立ちあがってしまった。話すタイミングを逃した。
 留美子も薫に遅れないようにと、ランドセルを部屋から持ってきて背負う。
「いってらっしゃい」
 手を振る私に手を振り返してくれたのは、留美子だけだった。薫は一度も振り返らず、曲がり角へとその姿を消す。
 私はため息をついて、ガレージの自転車を確認しに行った。白いバラの花束は回収済みなので、当然カゴには何も入っていない。ここ最近、自転車のカゴを確認するのが日課になってしまっている。謎めいたストーカーのせいだ。

 今日は幸恵とともに買い物に行くことになった。最初は断ったのだが、護衛もかねてつき添いたいのだと言って聞かなかったので、了承する。
 スーパーで買い物をする間、私はずっと怪しい人影がないか、挙動不審に店内を見回していた。そんな私の姿を見て、「ちょっとは落ち着きな」と幸恵が言う。気づくと、店の店員が訝しげにこちらを見ていた。万引きでもしようとしているように見えたのかもしれない。私は恥ずかしさのあまりすぐにその場を離れる。
 幸恵の話では、あのあと真志さんと話し合って、バラの花束は家に飾っておくことにしたのだそうだ。自分の家に飾るのも、捨てるのも心苦しかった私は、「そうしてくれてありがとう」と礼を言っておいた。
 スーパーから出て自転車置き場に向かったところ、私は思わず足を止めた。いつもの青年の姿を見つけたからだ。青年は自転車から降りて、スーパーの入り口に向かっている。ちょうど入り口付近で立ち止まっていた私を見つけた青年は、すぐに近づいてきた。幸恵は警戒して私の前に立つ。
「またお会いましたね」
 そう言った青年の顔は、疲れているのかどこか眠たそうだ。それに目が両目とも充血している。
「どうも」
 何か会話をするべき。そう思った私は、青年に無難な質問を投げかける。
「疲れた顔をしていますけど、仕事で忙しいんですか?」
「ええ、まぁ。アルバイトですけどね、コンビニの。大学受験に失敗してからは、夜にバイト、昼に勉強って感じで……最近はこうして息抜きに出かけるんです」
 青年の説明で、今まで青年に対してい抱いていた疑問の一つが解決した。なぜ昼間から青年のように若い男性が出歩いているのか、という疑問だ。バイトに受験勉強とは、ここまで疲れるのも無理はないだろう。
「その話、本当ですか?」
 幸恵が青年に突っかかる。青年は「え?」と首を傾げた。幸恵を止めようと思った時にはもう遅かった。
「本当は夜中に出歩いて、彼女の家に変なもの置いて行ってるんじゃないんですか?」
「えっと、あの、どういうことでしょうか? 話がちょっと分からないんですけど」
「だから、あんたが佳子のストーカーなんじゃないかって聞いてんの!」
 ここまでストレートな聞き方をするとは思ってもみなかったので、私はいたたまれない気持ちになる。青年を怒らせただろうかと思って顔色を窺ってみると、意外にも怒ってはいないようだ。
「落ち着いてくださいよ。僕はそんなことしていません」
「そう簡単に信じられるわけないでしょ」
 幸恵は一歩も引こうとしない。
「そもそも、なんで僕が疑われているんですか」
 青年のその必死さに、この人はストーカーではないと思った。そこで私は、青年に今までの経緯を簡単に説明することにした。説明の合間に幸恵が細かい部分をつけ足しなかなか話が前に進まなかったため、私たちはスーパーをあとにし、喫茶店へ場所を移すことにした。結婚してからは滅多に利用しなくなったので、どこか新鮮な気持ちだ。
 店内は洒落た雰囲気で、聞き覚えのある音楽が流れている。できればもっと違う機会に訪れたかったと私は思った。
 幸恵は腕を組み、青年を睨みつける。こういう高圧的な態度はあまり好かないので、私は幸恵の隣で縮こまっていた。
「これが潔白を証明できるかは分かりませんが……」
 青年はポケットから携帯を取り出し、私たちに画面を向ける。
 私は息を呑んだ。
 携帯の待ち受け画面には、青年と女性が並んでいる姿が映し出されている。二人の笑顔と楽しげな雰囲気からしてカップルのように見える。まさか、青年にガールフレンドがいるとは。
 これには幸恵も返す言葉がないらしく、唖然として固まってしまっている。
「ストーカーに悩まされているとも知らずに、不安にさせてしまってすみません」
 本来なら勝手な勘違いをした私たちが謝らなければいけないところを、青年が先に謝った。
「こちらこそ、本当にごめんなさい。証拠もないのに疑ってしまって」
 私は頭を下げる。幸恵はというと、「確かに体格からしてお兄さんじゃなさそう」と自分の発言を撤回し、小さく謝った。
「僕に何かできることがあればいいんですけど……」
「その気持ちだけで十分です。ただでさえあなたは忙しいんですから、無理はしないでください」
「ああ、彼女にも同じようなことを言われましたよ」
 青年は立ちあがり、「それじゃあ、僕はそろそろ失礼しますけど……」と言うと、テーブルにある空になったティーカップを見つめる。
「時間をとらせてしまってごめんなさい。ここは私たちが払っておきますから」
「ありがとうございます。本音を言うと、生活が苦しくて」
 青年はそう言って苦笑し、喫茶店を出て行った。
「私たちってことは、私もお金、払うわけ?」
「もちろん」

 留美子が寝静まり、家計簿をつけ終わったころ、私は薫にすべてを話そうと決意した。家族だから、夫だから――そして何より一番信用できる人だから。
 今朝と同じようにソファに座っている薫。その隣に腰を下ろし、顔色を窺った。難しい顔をしていて、私のことをちらりと見ただけでまたすぐ前に向き直ってしまう。
 薫にも悩みがあるのだろうが、きっと私が話さなければ薫も話してはくれないだろう。意を決した私は、「聞いてほしいことがあるの」と切り出した。
 四つ葉のクローバーの栞を発見したところから、今日まで起こったすべての出来事を順を追って説明する。話し終えたころには、時計の針が二十分も進んでいた。
 どうやら木之本家での見張りの夜、薫は私の不在に気づいていたらしい。不思議に思ったが、それについて追及しないことにしたのだという。やはり隣で寝ている薫を起こさずに家を出るのは無理があったかと思い、それと同時に薫の優しさを改めて痛感する。
「幸恵の提案で、張り紙にメッセージを書いて自転車のカゴに貼りつけようと思っているの」
「いいんじゃないかな。それでもやめないなら、警察に相談することもを考えた方がいいだろうね」
 薫の言葉に私は深く頷く。
 しかし、こうしてすべてを話した今でも、依然として薫の表情は暗い。
 ……次は、私が薫の話を聞く番だ。
「あなたも何か悩んでいるんでしょう?」
 私の言葉に薫は口をかたく閉じ、黙り込んでしまう。話そうと思えないほど私は信用されていないのか――そう諦めかけた時、薫は立ちあがり、「ちょっと待っていてくれないかな」と言い残してリビングを出て行った。
 言われた通りにソファで座って待っていると、薫は何かを持ってリビングに戻ってきた。どこにでもあるような茶色い封筒が四つ。
「見せるべきか迷っていたんだけど、さっきの話を聞いていたら、もっと早くに話していればよかったと後悔しているよ」
 そう言って封筒を一つ開け、中身を私の前に広げる。
「なっ、何これ……!」
 そう口にするので精いっぱいだ。私は口を手で押さえ目を見開き、ただそこに並べられた、自分の姿が映った大量の写真を見つめることしかできなかった。
 薫はその写真の内、一枚をひっくり返した。
 ――君は彼女にふさわしくない。
 写真の裏には、黒いマジックペンでそう書かれている。他の写真もすべて同じように黒いマジックペンでそう書かれていた。
 間違いない、これはストーカーの仕業だ。私だけではなく夫にもこんなことをしていたとは、気づけなかった自分が悔しい。いや、薫の異変には気づいていた。薫の言う通り、もっと早くに話をしていれば……。
 他の封筒に入っていた写真の一枚に、私と青年が書店で出会った時のものもあった。こんなところも隠し撮りされていたのかと思うと、ぞっとする。中には一年前の写真もあり、ストーカーが私に目をつけたのは随分と前だったということが新たに判明する。なら、今になってどうしてこんなに大胆な真似を。
「これは全部、新聞と一緒に郵便受けに入っていたんだ」
 郵便受け――毎朝、薫が新聞を取ってくれている。ストーカーは、この封筒を必ず薫が見ると分かっていたのか。
 薫まで巻き込むなんて、許せない……。
 必要のなくなったスーパーのチラシを持ってきて、裏に黒いマジックペンで大きく「これ以上続けるのなら警察に通報します!」と書いた。これを自転車のカゴにセロハンテープで貼りつける。このままでは暗くてよく読めないため、薫の提案でガレージの明かりをつけておいてもらうことに。
 夜の闇の中では、ガレージの明かりは眩しく思えた。玄関とガレージの両方に明かりがついていることで、警戒して今日は来ないかもしれないし、あの張り紙を読んでもまだ続けるかもしれない。
 深夜零時を回る前に私は眠りについた。不安と期待を胸に。