ストーカーおじさん 第5話 7月3日(水)

 日課である昼間の読書もせず、私はため息をついて冷蔵庫の中を見ていた。
 冷蔵庫には、自転車のカゴに入っていたさくらんぼと、青年からもらったさくらんぼ、そしてその横には新しく桃が並べられている。
 今朝、ガレージに隠すように置いていた自転車を確認しに行ってみると、これが入っていたのだ。
 今度は桃。
 これで分かったことは一つ。誰かさんは、私の自転車のカゴにしか入れようとしない。その事実が確認できただけでもよかったが、気味が悪いことに変わりない。
 玄関のチャイムが鳴り、思考は中断された。冷蔵庫を閉めた私は、確認もせずに玄関の扉を開ける。幸恵だ。相談事があるから昼に家に来てほしいと今朝、携帯でメールを出しておいたのだ。
「おはよう……あぁ、その表情からして、またカゴに何か入ってたんでしょ」
「ええ、まぁね」
 幸恵は、「お邪魔します」と言い、家にあがった。
 カゴに入っていた桃のこと以外にも、スーパーで再開した青年のことも話しておいた。青年のことは偶然かもしれないが、一応気になるからだ。
 その間、出されたお茶を飲んでいた幸恵は黙って耳を傾けてくれていたが、私がすべてを話し終えた途端コップを置き、口を開いた。
「間違いなく、そいつが犯人だと思うよ! きっと、佳子が好きなんだって。だから、こうやって遠回しにアピールしてるんだよ。モテモテじゃん、佳子! 今度会ったら、きっぱり言ってやりなよ、私には夫がいますからって」
 勝手に話を進めていく幸恵に、私は待ったをかける。
「ちょ、ちょっと待って、さすがにそれはないんじゃないかな」
「どうして?」
「ほらその人、昨日さくらんぼを手渡ししてきたのよ? そんな人が、わざわざ自転車のカゴにものを置くような、そんな気味の悪いことをすると思う?」
 気味の悪い、を強調する。
「人は見かけによらないってよくいうじゃない」
 これには私も言い返せない。
 しかし、たとえ青年が私になんらかの感情を抱いているとしても、どこで私を知ったのだろう。私の記憶上、青年とはあの時あの書店で初めて出会った。それに何より、青年と出会ったのはこの一連の件の発端のあと。それとも、青年は栞を自転車のカゴに入れたあと、あえて私に話しかけたとでもいうのだろうか?
「その人が犯人かどうかはともかく、相手は佳子の住所も顔も知っていて、一方的な片思いを抱いている、という点に違いないと思うんだよね。一度、旦那さんに相談してみたらどう?」
「夫には話したくないの」
 毎日の仕事で疲れがたまっている夫に、余計な心配をかけさせたくない。ただでさえ、留美子の誕生日パーティが終わってから調子が悪そうな顔をしているのだ。
「私の問題だから、私がどうにかしないと」
 一度そうすること決めたら、私はよほどのことがない限り考えを変えない。幸恵も私の性格を分かっているようで、すぐに折れてくれた。幸恵は大きなため息をつき、コップに入ったお茶を一気に飲み干す。
「仕方がないなぁ。私たち木之本家も手伝うよ」

 夜、薫が眠りについたのを確認した私は、ひっそりと寝室から忍び出た。
「お母さん?」
 扉を閉めた時、背後から留美子の声が聞こえてきて飛びあがりそうになる。
「どうしたのよ、こんな時間に」
 話声を薫に聞かれないよう、小声で話す。
 廊下は暗く、留美子の姿がどこにも見えなかったが、次第に目が慣れてきて見えるようになった。
「おトイレに行ってたの」
 私が留美子と同じくらいだったころ、夜の闇が怖くて一人ではとてもトイレには行けなかった。留美子はあまり幽霊というものを信じていないらしい。
「そう、なら早く寝なさい」
「亮くんのお母さんにもらったパズルが楽しくて、なかなか眠れないの」
「あまり熱中しすぎちゃ駄目よ。夜更かしは体に悪いんだから」
 私は留美子の背中を押し、部屋へと誘導する。これ以上、廊下で立ち話をしていれば薫がいつ起きてもおかしくない。もう起きてしまっているかも。
「お母さんも早く寝ないと駄目だよ。お寝坊しちゃうよ」
「もちろんよ。ほら、おやすみ」
 留美子が自室の扉を開けると、中から光が漏れた。まさか、毎日こうして夜遅くまでパズルと奮闘していたのだろうか。よほどミルクパズルが気に入ったらしい。留美子が扉を閉めるのを見届け、私はほっと胸をなで下ろした。自分の娘に嘘をつくのは辛い。
 私と薫の寝室から物音がしないとを確かめてから、私は一階に下りて家を出た。
 事前に打ち合わせしていた通り、木之本家の玄関の前で幸恵が待っていた。真志さんには幸恵から事情を話してもらい、今日だけ寝室のベランダを借りることになっている。あのベランダからなら、安全に私の家の前を見張れるからだ。幸恵と真志さんには感謝してもしきれない。
「俺はリビングで寝てるから、何かあったらいつでも呼んでくれ」
 ひらひらと手を振り寝室をあとにする真志さんの後ろ姿に向かって、「ありがとうございます」と再度礼を言っておく。
「さぁて、そいじゃ佳子、頑張ってね」
 私と幸恵が一時間ごとに交代で私の家の前を見張り、その間にもう一人は睡眠をとっておく、ということを事前に打ち合わせてあった。
 ベランダに通じる窓を閉めて寝室のカーテンを閉めると、ベランダは一気に暗闇に包まれた。そのベランダで一人、幸恵の用意してくれた座布団に座り込む。家の玄関の明かりはつけておいたので、誰かが家の前を通ればその姿が見えるはず。向こうから私の姿が見えることはまずないと思うが、本当に大丈夫だろうかと不安になる。
 ただひたすら座り込んでいるのは辛かったが、明かりをつけるわけにもいかないので仕方がない。
 私は、留美子のことや薫のこと、もうすぐ訪れる私の誕生日のことを考えていた。
 いつの誕生日だったかは忘れたが、幼いころの私が短冊に書いた願い事を思い出す。
『しあわせになれますように』
 あまりにも単純明快な願い事だったが、あのころの私は真剣そのものだった。叶うまでに随分かかったが、私は今こうして幸せに生活している。だからこそ、正体不明の相手にこの幸せな生活を壊してほしくなかった。
 一時間が経ったころ、幸恵が眠たそうに大きなあくびをしながらベランダに出てきた。ようやく交代の時間だ。
「よろしくね」と小声で言い、私は寝室に戻る。
 他人のベッドで寝るのは気が引けるが、睡魔は恐ろしいほどに強い。ベッドに寝転んだ途端、目の前が真っ暗になる。