ストーカーおじさん 第3話 7月1日(月)

 留美子が大きなあくびとともにリビングに顔を出した。昨夜の誕生日パーティの興奮が冷めやらず、ぐっすりと眠れなかったのだそうだ。
 留美子の胸にはぬいぐるみが二つ抱えられている。すっかり気に入ってくれたようで、昨日からほとんど手放そうとしない。親として喜んでいる子供の姿を見るのは幸せだ。しかし、このまま学校にまで持って行ってしまうのではないかと心配している。
「朝ごはんできたわよ」
 私の言葉を聞いていた留美子は椅子に座り朝ごはんを食べはじめたのだが、薫は聞こえていなかったのか、ソファで一人テレビを見ていた。
「あなた、朝ごはんよ」
「えっ――ああ、うん」
 いつもと違う薫の様子に、目を細める。
 昨日のことで怒っている? プレゼントを被らせてしまったから? 十二年間も一緒に暮らしているが、薫はその程度のことで怒るような男ではない。なら、なんだというのだろうか。悩み事?
 話しかけてみようかどうか迷った末に、やめておいた。下手に詮索したくはない。
「お母さん。お母さんは、誕生日に何がほしいの?」
 食べ終わった食器を私に渡した留美子は、唐突にそう聞いた。
「そうねぇ……ケーキ、とか?」
 一番、無難な誕生日プレゼントだ。幼いころは、ケーキと一緒に本やおもちゃをプレゼントしてもらったものだ。最近では、私の誕生日には家族揃って外食することが多い。誕生日であると同時に、結婚記念日でもあるからだ。誕生日にプレゼントやケーキをもらうにはもう大人になりすぎた。
「ケーキかぁ……じゃあわたし、お母さんの誕生日にがんばってケーキ作る!」
 留美子の言葉に私は数回、瞬きをした。聞き間違いではない。確かに娘は、ケーキを作ると言ってくれた。昨日に続き、またもや目が潤う。こうやって、誰かのために何かをしてやれる子に育ったのだなと私は感激した。
「ありがとう。でも一人じゃ難しいだろうから、お母さんも手伝うわ」
「駄目、わたしが作る。お母さんの誕生日だもん!」
 反対しようとしたが、留美子がせっかくやる気になっているのだからと、私は口出ししないことにした。その代りに薫が、「父さんが手伝うよ」と申し出てくれた。留美子は快く了承したが、どうも心配だ。薫も留美子も、ケーキ作りはおろか料理なんてしたことがない。ケーキの作り方が載っている本でも買っておいてあげよう。
 時計を確認し、もうこんな時間かと、夫と留美子を急かす。
 夫と娘を見送るために玄関へ向かった私は、一人で靴を履いている娘を見て微笑ましく思った。ほんの少し前まで私が手を貸さなければ履くことができなかったのに。年月は驚くほど早く過ぎていく。
「いってらっしゃい」
 軽い足取りで家を出た二人の背中に手を振る。そうすると二人は必ず途中で一度こちらを向き、手を振り返してくれるのだ。留美子が小学一年生のころ、手を振り返してくれるのは薫だけだったが、薫の習慣を目の前で見ていた留美子も真似をするようになった。
 二人が曲がり角を曲がり、姿が完全に見えなくなると、ようやく私は踵を返し家に戻る。ここはまでは普段と何一つ変わらない行動だった。
 この時、私は何気なく自分の自転車――世間ではママチャリという俗称で呼ばれている、一般的なものだ――のカゴに目がいった。いつもと違う何かを感じたのか、それとも本当にたまたま偶然、目に飛び込んできたのか……。
 自転車のカゴには、小さな長方形の紙が入っていた。故意に見ようとしなければ見逃していたかもしれない小さな紙だ。なんだろうか、そう思いながらカゴに近寄り手に取る。
 顔に近づけてみると、本などに挟む栞であることが分かったが、これはただの栞ではないようだ。
 クローバー。本物のクローバーを押し花にし、栞を作ったのだろう。クローバーの葉の数は一つ、二つ、三つ……四つ。
 幸運を呼ぶ、四つ葉のクローバー……。
 どうしてそんなものがここに。不思議に思いながら家の周りを見渡してみると、ちょうど家族の見送りに出てきていた幸恵と目が合った。
「おはよう、佳子!」
「おはよう」
 今日も幸恵は派手な服装で、私にはとても真似できない。
「留美ちゃんも八歳かぁ! 今は元気ハツラツだけど、あと数年も経てばきっと佳子みたいにお淑やかな女の子になるんだろうね」
「お淑やか、ねぇ……」
 人から淑やかだと言われるのは、はじめてだ。確かに幸恵と比べると大人しい方ではあるが。
「留美ちゃんにあげたパズル、喜んでくれた?」
「大喜びよ。夜まで熱中しちゃって、なかなか寝てくれなかったくらい」
 ミルクパズルに苦戦する留美子を見守っていたのだが、話しに聞いていた通り、今までのパズルとは比べ物にならない難易度のようだ。どれも白色のピースなので、とりあえず片っ端からはめ込んでみるしかない。あれを投げ出さずに完成させられるかどうか、私は心配である。
「よかった。やっぱり亮が選ぶものは一味違うわ」
 幸恵は腕組みをし、感心するように二度、三度と頷く。そして何かを思いついたのか、「あっ」と声をあげた。
「留美ちゃんと亮、将来はいいカップルになったりして」
「えぇっ?」
 急にそんなことを言われて驚く。留美子と亮くん……決めるのは二人自身であって私たち親ではないが、二人の将来を考えるとわくわくする。ただ、今の二人はどちらかというと仲のいい友達同士、といった感じだ。
「二人の将来が楽しみねぇ」
 幸恵は遠慮のない大きなあくびと背伸びをする。そこで初めて、私の手に握られているものに気づいたようだった。
「なぁにそれ。栞?」
「たぶんそうだと思う。いつの間にか自転車のカゴに入っていたの」
 栞が入っていた自転車のカゴを指さす。
「留美ちゃんへのプレゼントかな」
 昨日が留美子の誕生日だったことを考えると、その可能性が一番高い。とするとこれは留美子の知り合いの誰かが置いた、ということになるが、誰だろう?
「留美子、あまり本は読まないんだけど」
「へぇ、そうなんだ」
 本を読む時間があれば、パズルに費やすだろう。この家で読書家なのは私だけで、昼間にリビングで一人、読書をするのが日課だ。
「留美ちゃんの部屋に飾ってあげたら? 見たところその栞の中に入っているのって四つ葉のクローバーだし、運気上昇の効果があるかもよ」
 幸恵の提案に、「……そうね、そうするわ」と返事をし、しばらく他愛のない会話を一言二言交わしたあと、それぞれの家へと戻った。
 二階の留美子の部屋の扉を開け、中に入る。部屋の片づけは自分でし、散らかさないよう言いつけているが、この部屋の様子を見る限り留美子はしっかりと守っているようだ。
 小物などを置いている壁棚に栞を立てかける。あまりこういうものは信じないタイプだが、これで留美子に幸運が訪れてくれれば幸いだ。

 昼食後、しばらく読書を楽しんだ私は買い物に出かけるために自転車の鍵を手に取った。
 玄関の扉を開けると午後の心地よい風が顔に吹きつけた。あともうしばらくすれば猛暑が訪れるだろうから、そろそろ七分袖から半袖に変えた方がいいかもしれない。寒さは暖房やストーブで耐えられても、暑さだけは敵わない。昔から夏は嫌いだ。
 自転車に乗り、スーパーを数件回る。なるべく安いところで食材を選んでいる。たかが数円の差だが、塵も積もれば山となる。そう信じていつもこうしている。それにいい運動にもなるだろう。
 帰り道、私はいつもの本屋に立ち寄ることにした。薫と留美子のために、ケーキの作り方が載っている本を買おうと思ったからだ。本棚に目を走らせ、めぼしい本を探す。
 ケーキの作り方が載っているものならどれも同じだろう、そう思って手近な本に手を伸ばす。値段も妥当だし、これに決めてしまおうか。
「それよりも、そっちの方が」
 背後からの声にびくりとして振り返る。そこには二十代くらいの青年が立っていた。最初は私ではない誰かに話しかけたのかと思ったが、青年の目は確かに私に向けられている。
「えっと……?」
 私が戸惑っていると、青年は私の横に立ち、とある本を差し出す。私が買おうと思っている本とはまた違った本だったが、これにもケーキの作り方が載っているようだ。
「こっちの方が、作り方も分かりやすくて値段もお手頃ですよ」
「はぁ……」
 本を受け取り、値段を確認してみる。確かにこちらの方が安い。
 礼を言おうと顔をあげた時には、もう目の前に青年の姿はなかった。店内を見回してみると、書店から去って行くところだ。呼び止めて礼を言おうかどうか迷っている内に、その姿は消えてしまった。
 世の中には親切な人間もちゃんといるのだなと思いながら、渡された本を手にレジへと向かう。

 薫に買ってきた本を渡し、「ケーキ、頑張ってね」と応援する。
「ありがとう。佳子の誕生日なのに、なんだか申し訳ないなぁ」
 いつもの無邪気な微笑みを私に向ける。こういう表情も、留美子は似てきている気がする。
「せっかくの誕生日に、食べられないケーキだけは遠慮願いたいもの」
 もちろん冗談のつもりで言ったのだが、薫は本気にしたようで、「気をつけるよ」と返事をし、渡した本をぱらぱらとめくり、お目当てのページを開く。
「あ、そう言えば……」
 昼間におすすめの本を教えてくれた青年のことを思い出し、薫に話す。
「へぇ、世の中にはそんな親切な人がいるんだな」
 薫が自分とまったく同じことを言ったもので、つい笑いそうになってしまった。夫婦は長く一緒にいると似てくるという話は、あながち嘘でもないのかもしれない。
「留美子も、あんなふうに親切な子に育ってくれるかしら」
 私は家計簿を閉じ、一息つこうとお茶を淹れる。
 噂をすれば、留美子がリビングの扉を開けて現れた。もうすぐ寝る時間だが、どうかしたのだろうか。
「わたしの部屋にこんなの落ちてた」
 留美子の手のひらには今朝、飾っておいた栞が乗っている。
「ああ、それお母さんが飾っておいたの」
 立てかけただけだったから、ちょっとした風で落ちてしまったのかもしれない。壁棚ではない、他のところに飾った方がよさそうだ。しばらく考え、私は思いついて口を開いた。
「幸運を呼ぶ栞だから、枕の下にでも敷いておいたらどうかしら」
「幸運?」
 首を傾げて栞を見つめていた留美子は、「四つ葉のクローバーだ!」と嬉しげに叫んだ。
 数年前、留美子は四つ葉のクローバーを探し回った挙句、見つからずに泣き喚いたことがあった。今では古い思い出の一つだ。
 私にとっては、三つ葉も四つ葉も大して変わらない。
「ありがとう、お母さん! 大事にするね」
 栞を片手に自分の部屋へと戻って行く留美子。
「四つ葉のクローバーか。見つけるの苦労しただろう」
「私が作ったものじゃないの。今朝、気づいたら私の自転車のカゴに入っていたの。幸恵に見せたら、留美子への誕生日プレゼントじゃないかって」
「自転車のカゴ? なんでまたそんなところに」
 私自身それは疑問に思っていた。郵便受けにでも入れればいいものを、なぜわざわざ私の自転車のカゴに入れたのか。
「本当にそれ、留美子へのプレゼントなのかな」
 そう言われるとすっかり自信がなくなってしまっているのが本音だ。何かの拍子でうっかり入ってしまったのだろうか。
「留美子は喜んでいるし、いいじゃない」
 そう言い返すと薫は、「うぅん」と唸っただけで返事はなかった。