線香月 第3話

七月二十日

 携帯を渡したままだって言ったら、お母さんにすごく怒られちゃった。朝一番に取りに行きなさいって。だから今、私は夜桜の家に向かっている。夏雪の家に行ったら、携帯は夜桜が持っているって言うんだもん。夜桜の家って、学校から結構遠いらしいんだよね。それなのに、学校から一緒に帰ってくれるなんて……流石夜桜、天才ね! よし。携帯を返してもらったら、そのまま夜桜と一緒に学校に行こうっと。
「ここだと思うんだけど」
 緊張しながらインターホンを鳴らす。夜桜の家に来るのって、実は初めて。アパートだから、余計に緊張する。
「はい、どちら様ですか」
 以外にも夜桜が応答してくれた。
「由子だけど、携帯取りに来たの」
 ドタバタ聞こえた後、やっと扉が開いた。
「やっほぉ……えっ……」
「ん?」
「夏だから良いけど、それでも服とか着た方が良いと思うよ」
 ズボンだけの夜桜は、どんなことが起きてもまったく動じない。
「すまん」
 そう言って、すぐに服を着て戻って来る。私はとても優しいから、今のことは忘れてあげるわ。
「親はいないの?」
「まだ朝の五時だぞ」
 そりゃそうか。親がお昼まで寝ているから、お弁当も自分で作っているんだっけ。
「えっと……携帯は?」
「携帯なら牧人が持っているはずだが」
「えぇ?」
「家の住所教えるから、取りに行くか?」
 時真の住所が書かれた紙を渡される。なぜそんなのあらかじめ持っているわけ。
「自習の時間がなくなっちゃう。どうせ学校に持って来るでしょ」
 持って来なかったら、二度と歩けないように……嘘です。
「うぅ、最近本当に不幸な気がする」
「気にするな。夏休みが終わるまでの辛抱だ」
 そう言って、部屋の奥へと消えて行く夜桜。制服に着替えるのかな。
 それにしても、明日から夏休みだよね。まぁ、今日学校が終わった瞬間から始まるようなもんだけど。受験生はこの夏が勝負。お祭りに大成功して、成績アップも狙わないと。
「あらぁ、あなたが空のお友達?」
「へ? あ、はい」
 突然部屋の奥からやって来た女の人。この人が夜桜のお姉さんかな。すごく美人。とても二十七歳には見えないわね。結婚して、子供も二人いるらしい。
「じゃあ、一応アドバイスしとくけ――」
「姉ちゃん、何で出て来るんだよ」
 制服に着替えて走って来た夜桜。アドバイスって、何かな。
「ほら、由。行くぞ」
「えぇ、アドバイス聞きたいよぉ」
 私は夜桜に引きずられて行く。アドバイスって何なのぉ。
「また今度会った時にでも話しましょう」
 手を振って見送ってくれるお姉さん。うーん、気になる。
「家に帰って寝とけ、馬鹿」

「も、持って来るの忘れたって……あんたねぇ」
 今は六限目がちょうど終わって、五分間休憩の時間。他の生徒はみんなそれぞれのクラスに移動した。
時真がとてつもなく遅刻したせいで、まだ携帯のことは聞けていなかった。だから今聞いているわけ。どうやら、携帯を家に忘れて来てしまったらしい。
「ちゃんと持って来ていると思ったんだけどなぁ」
 カバンの中を探る時真。私の携帯を家に忘れて来るなんて、ひどすぎる。
「すまん。どうしてもメルアド交換がしたいから携帯貸せって言われたんだ」
 よ、夜桜さん、笑顔で言われても反省しているように見えないんですが。
「とにかく、今から取りに戻ってよ」
「めんどーだなぁ。夏雪の家に行く時に持って行くから」
 もうやだ。時真は一から再教育しないと、絶対に大人になれない。そもそも高校を卒業できない。そう思っていると、いきなり頭を何かで叩かれた。
「ねぇ君達。チャイムの音、聞こえなかったの?」
 あ、蒼島先生だ。私達は急いで姿勢を直した。いつの間にか、周りには違うクラスの生徒がいる。一度もクラス替えがないから、あまり知らない人ばかり。
 ちなみに、蒼島龍(あおしま りゅう)先生は三年生の学年主任。暇さえあればパソコンをいじっている人。一部の不良からは、あほ島と呼ばれているらしい。クマが即婚の二十七歳なのに対し、蒼島先生は未婚の二十五歳。そろそろ結婚する頃だと思うんだけど、女運が悪いみたい。まだ一度も付き合ったことがないんだって。まぁ、あのボサボサ頭に眼鏡のせいでしょうね。
「じゃあ、募金活動について簡潔に述べるよ。夏休みの間、暇な時にこの箱を持って、『お金よろしくお願いします』とでも言っておいて」
「それだけ?」
 夏雪がそう言った。時真は口が開いたままふさがらないらしい。
「うん。簡単そうだったから、ここの担当になったんだ」
 三組で良かった。
「あはは冗談だよ。とにかく、暇な時はできる限り募金活動に励んでね。目標金額は、百万円。 これだけあれば、後はなんとかできるんじゃない」
 いろいろといい加減。
「それにしても先生。そんな真っ白な箱で募金活動をしろと?」
 時真が白い箱を指差す。確かに地味。
「そう言われると思って、色ペンを持って来たのだ!」
 蒼島先生が、五つのグループに一つずつ箱を渡した。ついでに色ペンも。
「募金については各グループで計画して。じゃあ、適当に箱に落書きしちゃって」
 蒼島先生は最後にそう言うと、持って来ていたパソコンをいじり始めた。あなた、本当に学年主任でしょうか?
「どうする?」
 他のグループも困惑気味。
「私は絵のセンスないからね」
「大丈夫だ、由には任せない」
「何よ、バーカ」
 確かに、この前女の子の絵を描いたら、『目が死んでいる』って言われた。
「俺が描こうか? 結構絵には自信があるんだけど」
 時真の発言に、私はびっくり。
「そうなの? すごい、全然そんな風には見えない」
 うれしかったのか、笑顔になる時真。
「じゃあ、僕と牧人で描くよ」
「お任せします」
 二人が描いているのを、ただじっと見つめていた。
 夏雪の絵はきれいって感じがする。時真の絵は、意外にもアニメ風。こんな絵が得意なんだ。初めて知ったかも。
「できた!」
 夏雪と時真が同時にそう言った。
「ちょ、ちょっと。二人とも、何描いてんのよ……」
 かわいい絵や、『募金箱』ときれいな字で書いてあるんだけど、それより目立つのが……『美月由子は彼氏募集中です』って……。
「蒼島先生、ちょっと教室から出て良い?」
「良いよ」
 それを聞いた私は、笑顔で夏雪と時真を引っ張って行った。
「姉さん怖いよぉ」
「ちょ、ちょっとした冗談じゃねぇか」
 私は二人に一発ずつ、由子パンチをくらわせた。
「二人とも、腹痛かい?」
 私達が教室に戻ると、蒼島先生が聞いて来た。
「大まかに言うとそうです」
「俺もそうです」
 二人はそれぞれそう言うと、涙目で椅子に座る。
「自業自得だな」
 夜桜はそれを見て笑った。
「後数十秒でチャイムが鳴るけど、描けていない人は別に描けてなくても良いからね。とにかく百万円くらい集めてくれれば良いから。僕も暇な時に手伝うよ」
 先生が言い終わった直後に、チャイムが鳴った。
「はい、じゃあもう帰っちゃって良いよ」
 蒼島先生は決して適当な人ってわけじゃない。これでも生徒のことを考えて、いつも時間きっちりに行動してくれる人……だと思えば良いのよ。
「ぼ、僕、もう帰るね」
 未だにお腹を押さえている夏雪。時真はもう平気そう。
「宿題、夏雪の家でやらないの?」
 私はカバンに入れた山ほどの問題集を見せる。お祭りのおかげで、三年生は問題集だけになってくれたんだよね。ありがたや。自由研究と読書感想文が、毎回の敵だったもん。
「ごめん。さっき思い出したんだけど、弟が昨日ペンキを大量にこぼしたせいで、僕が全部きれいにしないといけないんだった」
 妹は小説の天才で、弟はイタズラの天才ですか、そうですか。
「じゃあ夜桜、今日は私の家に集合で良い?」
「良いぞ」
「俺も行っちゃ駄目?」
「はいはい。勉強教えてあげますよぉ」

 私達は夏雪と途中で別れ、そのまま家に直行した。当分制服から着替えられそうにないわね。あぁ、もっと家が広かったら良かったのに。
「なぁ、さっきから妙に後ろが怖いんですけど」
 時真が後ろの電柱に隠れているストーカーを指差した。
「大丈夫。いないと思えばなんともないから」
「それができるのは美月だけだろ。あいつの目、怖いって」
 まぁ、確かに時真をにらみつけているようだけど、気にしない気にしない。
「たまには無視するってことも覚えろ」
 夜桜にそう言われても、時真は後ろばかりを気にしていた。
「流石に家の中に入ったら大丈夫だってば。ただいま」
 私はくつを脱いで二階に上がり始める。
「俺さ、女の子の家に行ったことねぇんだよな」
「私の部屋は弟と一緒に使っているから、あまり期待しないでね」
 私はノックして部屋に入った。明日が夏休みの慧は、まだ帰って来ていないみたい。学校が家から遠いもんねぇ。
「募金箱は私が預かっておくね。失くされたら困るから」
 慧の机の上に募金箱を置き、私は折りたたみ式食卓テーブルを広げた。これで勉強できる。
「さぁ、夏休みの宿題を早速やるわよ!」
「夏休みの宿題でここまで気合い入れる奴、初めて見たわ」
「夜桜くーん、人がせっかくやる気だったのに、そんなこと言っちゃ駄目でしょ?」
「はい」
 夜桜はそれ以上何も言わず、自分の宿題に取りかかった。
 私は時真に問題を教えながら、自分の宿題も進めた。一時間くらい経つと、時真が聞いて来る回数も減ったみたい。流石私。なんて教え上手なのかしら。
「たっだいま!」
「おかえり、慧。ちょっとせまいけど、我慢してね」
「おぉ、よっちゃんだ。あれ、その人は? この前ストーカーにぼこられた人?」
 慧が時真を指差す。
「俺は時真牧人。超天才でクールな神、とでも呼んでくれ」
 まったく逆じゃない。
「時真? とっちゃんって呼べば良いの?」
 あんたの父親じゃありませんから。
「マッキーで良いんじゃね?」
 どこの外国人さんなのよ。まったく。夜桜もふざけないでよね。
「分かった。マッキーね」
 マッキーで良いんだ……。
「俺ってどこの外国人だ?」
「私の真似しないでよ」
「してねぇって」
「宿題に集中しろ、馬鹿」
 夜桜だってさっきまでふざけていたくせに。
「うわ、何これ」
 慧がやっと机の上の募金箱に気付いたみたい。
「ごめん、お祭りで資金集めの係だから。それどこに置けば良い?」
「こっちに置いておくよ。姉さんって彼氏ほしかったんだね……」
 た、確かにほしいですけど。
「そう言えば、募金はいつやんの?」
 時真がふと問題集から顔を上げる。
「夜桜が決めてくれるってさ」
「……明日の朝六時に近所のセマイ公園に集合。祭り会場のヒロイ公園に行くなよ?」
「はーい。夏雪にも言っておく」
 私は携帯を取り出して、必死にメールを打った。な、慣れたらきっと高速で打つことができるようになるんだから。
「あぁ!」
 突然、時真が大声を上げる。
「な、何よ」
「今何時?」
「六時半だよ、マッキー。今日はお母さんがいないから、八時まで大丈夫だけど?」
 慧が机の上の時計を見て言う。
「俺の家、七時から夕食なんだよ。帰るな」
「じゃあ、流れに乗って俺もそろそろ帰るわ」
 えぇ、二人とも帰っちゃうんだ。
「また明日ね。気を付けて」
 二人を玄関まで送る。外はまだ明るい。これが夏だって証拠ね。
「明日のこと忘れんなよ、美月」
「あんたとは違うもんねぇ」
「どっちも同じだろ」
 そ、それは言わないでよ、夜桜さん。