ストーカーおじさん 第1話 6月29日(土)

 悲劇というものは誰にでも起こりうるものなのだと、いつの日だったかとある友人に言われたことがある。悲劇もまた一種の事故なのだから。例えどんな善人であっても何も悪いことなどしていなくても、悲劇は知らぬ間に忍び寄ってきてすべてを破壊してしまうのだと。
 事故や悲劇――そんな言葉とは無縁の生活を家族三人で送ってきた。だからこそ私は、これからもそうやって暮らしていけるのだと信じて疑わない。
 最愛の娘である留美子は明日で八歳の誕生日を迎える。私は毎年恒例の誕生日パーティに使う花束を探して、休日で賑わう商店街を自転車をひいて歩いていた。
 ちらほらと目に映る親子連れや夫婦、それにカップル。中には一人で歩いている者もいるが、ここまで歩いて来て見かけたのは数えるほどだ。
 隣を歩く留美子は必死に自転車のカゴを手で掴み、遅れないようについて来ている。私も置いて行かないようできるだけゆっくりと歩いた。この人混みの中で万が一にでも迷子にでもなったら大変だ。
 友人におすすめされていたお目当てのフラワーショップを見つけた私は、さっそくその店の前に自転車をとめる。いつも買い物で通る道なのでここにフラワーショップがあることは知っていたが、店に入ったことはない。
「あの、すみません」
 店内には私たち以外の客の姿はなかったため、手近な店員に話しかけた。
「花束を家に飾りたいんですけど。私、花の種類とかはよく分からないので、お任せで花束を作っていただけませんでしょうか」
 突然の頼みにも狼狽えた様子はない。店員はすぐに、「ええ、もちろん。お祝いごとか何かですか?」と尋ねてきた。
「明日が娘の誕生日なんです」そう言って留美子を一瞥する。留美子は店内に並べられている花の数々に魅了されているようで、あちこち首を動かしていた。
「なるほど、そうでしたか。私でよければお力になりましょう」
 値段は予算内に収まるように、花瓶に入るくらいの大きさで尚且つ見栄えのいいものをとお願いしてみたところ、店員は次々と花を選んでいった。花の名前や豆知識なども一緒に教えてもらったのだが、初めて聞く言葉ばかりでまるで外国の言葉を聞いているような感覚になり、頭がくらくらする。
 店員は青紫色の花を手に取り、「これはサービスしておきます」と言った。
「それは?」
「アガパンサスといって、六月三十日の誕生花なんですよ」
 誕生日に宝石を当てはめ、誕生石と呼ぶということは知っていたのだが、誕生花は初めて聞く。その時期に咲く花を適当に当てはめているだけでは、という思いは口には出さないでおいた。
「綺麗な花ですね。娘も喜ぶと思います」
 私はそう言って、ひっそり離れて行こうとした留美子を手で引き寄せる。子供をじっとさせ続けるのは大変だ。
 店員がラッピングした花束は驚くほど美しかった。我が家のリビングに置くにはもったいないと感じるほどだ。店員は見た目からして中年だが、やはりこの道のプロだったりするのだろうか。
「なんだかお花屋さんって憧れます」
 金を払い花束を受け取る。
「憧れるだなんて。私はただ、やりたい仕事をやっているだけですよ」
「素敵なことだと思いますよ」
 留美子が花束に手を伸ばし、「持ちたい」と頼み込んできたが、せっかくの花束を落とされでもしたら困るのでなんとか諦めさせる。
「あの、この花束って一週間くらいは持つでしょうか?」
 店から出ようとした私は、ふと店員の方を振り返ってそう聞いた。
「一週間はちょっと厳しいかもしれませんが、どうかしましたか?」
「私の誕生日が一週間後なんです」
 それまで持つのなら嬉しかったのだが、無理なら諦めるしかないだろう。
「その時はまたぜひ、うちをご利用ください」
「ええ、そうします。プロの方に頼むと私も安心ですから」
 友人のおすすめだからと来てみて正解だった。いい店だ。やはり、友人の目に狂いはない。
「また、来ますね。ありがとうございました」
 私は頭を下げ、自転車のカゴに花束を乗せて店をあとにする。
 ふと、フラワーショップの向かいの店に目がいく。いつも私が本を買う本屋だ。何かおもしろい本でも買おうかと思ったのだが、早く家に花を飾りたいので、今日は本屋に寄るのはやめておく。
 家にある花瓶はこの花束に似合うだろうか。高すぎるものを買うのもなんだからと安めの花瓶を買ったのだが、今になってもう少し高価な花瓶を買っておくべきだったと後悔する。
 家に着き、自転車を玄関の横にとめる。自転車のカゴから花束を手に取り、もう片方の手で玄関の鍵を鞄から取り出す。玄関の扉を開けようとしていた時、隣の家から親子が出て来た。鍵を開けて留美子を先に中に入れ、私はその親子の方へと近寄る。
「こんにちは」
 私が挨拶をすると、木之本幸恵の顔はぱぁっと明るくなった。
「こんにちは……あ、その花束」幸恵は私の持つ花束を指さし、「あそこの店、どうだった?」と聞いてきた。
「予想以上によかったわ、紹介してくれてありがとう」
 幸恵は五年前、東京から遥々ここ京都まで、家族三人でやって来た。彼女の息子が留美子と同じ年齢で、最初はそのことについて短い会話を週に二度か三度ほど交わす程度だった。しかし、それを何度も繰り返している内に、今では家族ぐるみの交流になっている。
 私よりも幸恵の方が一歳だけ年上で三十四歳なのだが、心も見た目も、私よりずっと年下に見える。二十代と嘘をつかれても納得してしまうほどだ。
 私は幸恵の息子、亮くんを一瞥したあと、「どこに行くの?」と聞いた。
「ふふっ、それは……内緒!」
 幸恵はウインクしてそう言ったが、留美子への誕生日プレゼントを買いに行くのだろうと察しがついた。去年はかわいい筆箱に自由帳と、小学一年生にぴったりなプレゼントをもらった。今年は何をもらえるのかと、留美子も期待していることだろう。
「亮くん、お母さんが変なものを買わないように見張っておいてちょうだいね」
「うん、任せて!」
「ちょっと、変なものって何よ!」
 幸恵は子供のように頬を膨らませた。
 去年、亮くんが話していたのだ。幸恵が留美子への誕生日プレゼントにプラモデルを買おうとしていたという話。悪気はないのだと思う。長年、亮くんと暮らしてきた幸恵には、女の子が喜びそうなプレゼントが思いつかないのだろう。思いついたとしても、美容品などと大人向けのものばかり。初めての留美子への誕生日プレゼントがまさにそれだった。
「明日はこの花束をリビングに飾って待っているわね」
「私の誕生日でもないのに、なんだかドキドキしてきたわぁ……あ、そうそう、明日は真志も一緒にお邪魔させてもらうから」
 木之本真志は幸恵の自慢の旦那。日曜日以外、あまり顔を合わせることはない。真志さんは幸恵に性格がそっくりで、夫婦というより兄妹のように見える。そのことを二人に話してみたことがあったが、その時は「またまたご冗談を」と同時に返してきた。
「分かった。料理を一人分増やしておくわ」
「一人分で足りるかな、真志」
「二人分、増やしておくことにするわ」
 あの真志さんなら、二人分くらい軽く平らげてしまいそうだ。
「日曜日が誕生日だと、得した気分になるわよね」
「分かる分かる!」
 私も来週――つまり留美子と同じ日曜日が誕生日だ。日曜日なら夫の薫も仕事が休みで家にいる。やはり誕生日は家族揃って過ごしたいものである。
「お母さん、早く行こう! いつも佳子おばさんと話すと長くなるんだから」
 亮くんが呆れ顔で文句を言う。
「分かりました、行きます。行けばいいんでしょ!」
 幸恵は私の方を向いて「それじゃあ、明日は楽しみにしててねって、留美ちゃんに伝えといて」と言うと、亮くんに引っ張られて行った。
 明日は騒々しい誕生日パーティになりそうだ。私は胸を躍らせて玄関の扉を開けた。